第一次世界大戦後に「オーストリア・ハンガリー帝国」が崩壊し、ボヘミア、モラヴィア、スロバキアが「チェコスロバキア共和国」の独立を宣言した。
ナチス・ドイツが台頭すると、1939年ドイツの保護領、保護国と成り、「チェコスロバキア共和国」消滅、第二次世界大戦後に復活、1948年共産主義政権に
 その後、ドゥブチェク政権の自由化、民主化『プラハの春』がワルシャワ条約機構軍の介入により崩壊する。
1989年の『ビロード革命』で共産政権は崩壊、又、チェコ人とスロバキア人の対立から、平和的に分離する。

チェコ共和国( cceska republika)は1993年1月1日にチェコスロバキアが分離して成立しました。
 首都はプラハです、


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チェコ共和国は中欧に属する国で、西側はドイツ連邦共和国、北東はポーランド共和国、南はオーストリア、南東はスロバキア共和国と接しています。
国土は東西に細長く西側がプラハが中心都市とする『ボヘミア地域』、東南側がブルノを中心都市とする『モラヴィア地域』、東北側ポーランドに近い『シレジア地域』の3地域から成ります。

古代から中世

古代にはケルト人が、その後ゲルマン人、6世紀にはスラブ人が定住し現在のチェコ人の祖先といわれています。
9世紀後半にスラブ人による大モラヴィア王国が成立、東ローマ帝国と交易を行いビザンチン文化を摂取し、870年にはプラハ城の最初の建設がされました。
907年マジャル人により大モラヴィア王国は崩壊し、

聖ヴァーツラフ

ボヘミアではプシェミスル家が公国を形成し、神聖ローマ帝国に属し、キリスト教を受け入れプラハを中心として公国の支配体制を構築した。
921年にヴァーツラフⅠ世がボヘミア公と成り公国内のキリスト教化を進め、神聖ローマ帝国の宗主権を認める事によりハンガリー等の軍事外圧を弱め、公国の支配を確立した。
ヴァーツラフⅠ世は祖母、聖ルドミラに敬謙なキリスト教徒として育てられ、聖ヴィート大聖堂の元と成る聖堂の建設をしました。
ヴァーツラフⅠ世は935年に弟ポレスラフによって暗殺され、聖ヴィート大聖堂に埋葬され、プラハの守護聖人として聖人に列聖されました。

プシェミスル朝

12世紀にはボヘミア王の称号がオタカルⅠ世に与えられボヘミア王国が成立した。
1230年にヴァーツラフⅠ世がボヘミア王に即位し(聖ヴァーツラフ=ボヘミア公ヴァーツラフⅠ世とば別人です)、1253年にはオタカルⅡ世がボヘミア王に即位した。
この時代、モンゴル帝国のポーランド侵攻、ハンガリー王国のベーラⅣ世がオーストリア候フリードリヒⅡ世を敗死させ、バーベンベルク家は断絶、オーストリアはフリードリヒⅡ世の姉マルガレーテと結婚していたオタカルⅡ世が領有した。
オタカルⅡ世は1260年ハンガリー王国のベーラⅣ世をクレッセンブルンの戦いで破りシュタイアーマルクを獲得、更にケルンテンを領有、現在のオーストリアを略領有する事と成った

これに対し選定候達はドイツ王への野心を持つオタカルⅡ世を警戒し、1273年にルドルフⅠ世をドイツ王に選出した。
ルドルフⅠ世は1278年マルヒフェルトの戦いでオタカルⅡ世を敗死させ、ハプスブルク家によるドイツ、オーストリアの支配が始まった。
オタカルⅡ世の死後ボヘミア王にはプシェミスル朝のヴァーツラフⅡ世、ヴァーツラフⅢ世が継いだが、1306年ヴァーツラフⅢ世が暗殺され、プシェミスル朝は断絶した。

ルクセンブルク朝

・ プシェミスル朝が断絶後、ボヘミア王にはチロル伯ハインリッヒ、ハプスブルク家のルドルフ1世、ルクセンブルク家のヨハンと代わり、1346年カレルⅠ世(=神聖ローマ皇帝:カールⅣ世)がボヘミア王となった。

カレルⅠ世(=カールⅣ世)

カレルⅠ世の母はプシェミスル朝の皇帝ヴァーツラフⅡ世の娘でプラハで生まれで、カレルⅠ世はボヘミア王、ドイツ王、神聖ローマ皇帝となった後もチェコ人として意識を持ちつづけた。
カレルⅠ世は文人皇帝と、最初の近代的君主とも言われていて、プラハを皇帝の都として整備、東ヨーロッパで最初の大学(プラハ大学:後にカレル大学に)を創設した。
プラハの旧市庁舎もカレルⅠ世(=カールⅣ世)により建てられたといわれています。

チェコ共和国の首都、プラハはヴォルタヴァ川の両岸に9世紀末から栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都として栄えた中世の建築が残り、又スラブ民族としての独自の文化を併せ持つ都市です。
ヴォルタヴァ川の西側には『プラハ城』が丘の上に建ち、その足元には『マラー・ストラナ(小地区)』の古い町並みが在り。
ヴォルタヴァ川の東側には古い町並みの『ユダヤ人地区』『旧市街』そして『新市街』が在ります。
「カレルⅠ世(カールⅣ世)」によって架けられた『カレル橋』がヴォルタヴァ川の両岸の街を結んでいます。

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